映像 藝州かやぶき紀行



東京の学習院女子大学で『藝州かやぶき紀行』という映画を観た。
広島の茅葺き職人たちの足跡と現在の姿を追ったドキュメンタリーだ。

広島の茅葺き職人は、藝州屋根屋・藝州流・藝州屋根師・広島サッカなどと呼ばれていたらしい。
映画の中では、この藝州屋根屋の仕事が、関西から九州までの広い地域に及んでいたことが紹介される。
明治後期から昭和30年代頃にかけて、山陽側の屋根屋を中心に、多くの人が出稼ぎに出たのだそうだ。
昭和20年〜30年代には炭鉱が栄え、そこで働く労働者が増えた。彼らの食糧を賄うために畑の働き手が必要となり、農家の数も増え、その屋根を葺くために職人たちは出かけていった、ということだった。

炭坑節発祥の地で、筑豊最大の炭鉱都市である福岡県田川市には、山本作兵衛という画家が残した鉱夫たちの絵がある。辛いことが多かったろうに、この人の淡々とした記録画はどこかユーモアが感じられて、おもしろく、心に残った。
またこの地域の茅葺き屋根は、茅の穂先を下にして重ねていく逆葺き(さかぶき)という手法で作られており、夜に寝転べば家の中でも天上の月が透けて見えるような、薄い屋根だったという。

一方、雪の深い地域は屋根が厚く、場所によってさらに屋根の葺き方が異なっている。
必然的に、家が建つ場所によって、茅葺きに使う道具の形や材質・役割も違ってくる。
各地の屋根屋衆が見せてくれる道具は多種多様で、それらを一体どう使い分けるのか、
とても興味深かった。また、どれも美しい造形をしているので感心した。実物を見たいとも思った。


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「頭に絵を描くようにならな、いけん」
「最初は(茅の束に)手を入れるだけで泣きようもんよ」

監督に向かって、仕事のいちいちを教えてくれるおじさんたちは、いざ仕事を始めると、
話をしている間も休みなく体を動かしつづけて、すっかり目の前のことに集中しているように見えた。
身のこなしは軽く、生き生きとした表情が頼もしい。皺の深い、樹皮のような手は、働く人の手だ。

そんな映像の途中、酔っぱらったおじさんが出てくる場面がある。
日が暮れて辺りも暗くなった頃に、おじさんの帰宅を待っていた監督を捕まえて、
家の前で話し始め、勢いが止まらなくなってしまった。立ったまま何分話したのだろう。

笑い話のようだが、それが本当の気持ちじゃないだろうか、と期待を込めて私は思う。
ちょうど同郷の田舎に住んでいた女の子が、子どもの頃のことを教えてくれた時に「つまらない、
不便なだけのところですよ」と顔をしかめながら、話を止められなかった様子を思い出した。
自慢話も苦労話も、美化する気持ちはないけれど、誰にもしっかりと残っているように思える。
言葉の形を成しづらく、普段は表に現れなくとも、その人の技に体に、知恵や経験として記憶が残る。



東広島市志和堀の藝州流・石井元晴さんによる屋根の葺き替え作業と一連の記録が済んだ後、
若手の職人とその弟子たちの姿が紹介される。古くからの職人は、自分は茅葺きの家に住もうとは
思わないと笑っていたが、弟子たちは自分でも茅葺きの家に住みたいと思うんじゃないだろうか。

広島のものではないけど、鳥取県智頭町で見た茅葺きの家の写真を載せてみる。
あまり遠くならないうちに、生まれ故郷の広島から郷里の福岡までを訪ねて歩こうと思う。
何日あれば足りるだろう。きっと、次から次にいろんなものが見つかる。

同じ教室に座っていた女の子たちも何か見つけただろうか。
もし今見つからなくても、いつか何かを思い出すといいなと思う。

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