福岡県福岡市 帰省

2004年1月 帰省
2008年1月 帰省
パソコンに溜め込んでいた写真を整理していたら、2枚のそっくりな写真が出てきた。
モノクロの方が2004年1月に、カラーの方が2008年1月に撮った、小倉駅周辺の風景だ。
2004年は新幹線の走行中に、2008年は列車を間違えたせいで一旦降車した時に撮った。

いつも年末直前まで予定を決めきらず、また飛行機は退屈なので、新幹線で博多まで帰省していた。
2004年は福岡市の新しい都市計画が策定された年で、私が散歩や小旅行の味を覚えはじめた時期でもあった。私は24歳で、この頃からそれと知らず、たくさんの美しいものに出会っていた、と今思う。

お上りさんの頭で「手ぶらで国に戻ったら負けだ」というような気持ちが、なんとなくあった。
今も少なからずそういう気持ちがある。何に負けるって、自分に負けるようだと思った。
振り返ることも気が引けて、育った場所のことなど知らないし、知りたくもないと思っていた。

愚かな放蕩者の考えだけど、何か怖くて嫌だった。


私が育った町は、九州最大の繁華街の隣にある。
そのくせ、都市部から少し離れたところよりも、ずっと地味な場所だった。
友だちの家も床屋・旅館・食堂など、自営業の家が多かった。半端な町だと思った。

昭和2年に建てられた小学校は、市内最後の木造校舎で、長い休みの前には必ず床を磨いた。
私が卒業する頃には、雨漏りがひどくて、あちこちに器やバケツを置いていた。
あとからできた講堂と校舎を結ぶ中廊下も、壁が崩れて鉄筋がむき出しになっていた。

近所には、大正に始まったとされる連合市場があって、毎週母の買い物を手伝わされた。
鮮魚をはじめ、野菜、お茶、乾物、餅、練り物、お菓子等々……。
荷物は重たかったけど、長い市場を歩くのは楽しかった。脇道に入れば、友だちの家もあった。

また市場の目の前には、市を二分するような形で、博多湾から流れてくる川があった。
あまりきれいな川ではなかったけど、水が引いた川底で、よく遊んだ。魚釣りをする人もいた。
川を越えると、大きな神社があって、毎年そこに子どもたちが神輿を奉納した。

家の窓からは山が見える。毎年夏は油山という山に遊びに行った。九重連山に登ったりもした。
曾祖母が亡くなるまでは、夏の遊び場はもっぱら海だったように思う。
松ぼっくりを拾いながら海沿いの道を歩き、浜辺で小さな蟹を採った。



2015年をめどにした都市計画は、着々と進んでいて、町の様子は急変した。
私が通った校舎はもうないし、私や友だちの家があった場所には、ビルやマンションが立ち並んでいる。
でも海も山も、川も市場も健在だし、学校自体が消えたわけではない。人もいる。

17年住んだ場所。生まれた場所は違う。
ごく最近になって、ようやくこの土地のことを知りたいと思うようになった。

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